『終戦のローレライ』

終戦のローレライ 上

終戦のローレライ 上

 僕はこれまでこんなに立派な人は演じたことはなかった。立派な人物の役でも、人間的な弱さや頑固さなど、欠点を探しながら演じてきました。でも絹見艦長は、脚本を読んだ時はそういう部分がない。撮影中にそのキャラクターの持つ人間臭い部分を探したんですが、見つからなかった。とにかくひたすらまっすぐに演じることになりました。


     役所広司(「ローレライ」パンフレットより)

 昨日「ローレライ」に感じたしょんぼり感について考えていて、ぱらぱら見ていたパンフレットに上記一文を見つけて、これだ!と思いました。
 そうだ、おっさんの再起の物語でもあったハズです。原作は。
 絹見は、潜水艦艦長としては有能でしたが、戦争自体には疑問を感じていました。しかし国家の暴走を一軍人が押しとどめることが出来るはずもなく、潜水艦に乗らないことで葛藤から逃げようとしたものの、今度は海軍学校の教官に任命され若者を戦場に送り込む片棒を担いでいる矛盾。
 物語の冒頭では、生きる目的も戦う目的もなく、ただ特攻を命じられる日をぼんやりと待つ、死んだような男でした。
 その彼が、伊507との道のりで信頼できる部下と目的を得て、彼の内面の空虚さと絶望につけこみ操ろうとした浅倉を退け、あらゆるしがらみから解放され最後のバトルで才能を余すところなく発揮する姿に、
 不死鳥のように蘇った老兵の、
 いや「大人」の本気の格好良さに、
 拍手喝采したのでした。


 原作で。


 映画の絹見艦長ったらさいしょっからやる気まんまんで、キャストに異存ないのに何か違う、と思ったのでした。そうだ。そうだよ。


 あと、悪い人・異質な人も乗っていたとは言え、ぜんたいとしては伊507は狭いながらも楽しい我が家、的なほんわかした雰囲気があったような気がします。その雰囲気の描写が大幅に省略*1されてたのが悔やまれます。
 その「ホーム」的な場の中で大人が子供を見守る話でもあった訳で、それゆえ、みんなが愛した娘っ子と、彼女が愛した若者を(もちろん、敗戦のその先の未来の希望の象徴でもあります)、体を張って守るのが大人ってもんじゃないか、って話に自然とつながると思った。
 映画版ではその辺がひどく唐突に思えて音楽だけが盛り上がってて、すっかり置いてけぼりの気分を味わいました。折笠以上にわたしが。
 ああ、こんな風に思い出して行くとすごくイイ話ですね『終戦のローレライ
 プラグスーツ!?とかナチス親衛隊制服のロンゲ美青年!?*2とか現代っ子が!?とかツッコミまくったのを撤回する気はありませんが、読んでいて何回も激しい涙の発作に襲われたのは本当です。長くて読むのがタイヘンだったけど、間違いなく面白かったのです。すごく。
 伊507も艦内も目に焼き付けてきたことですし、再読しようかなあ…。

*1:下士官食堂にパウラが迎え入れられるカットは、あった。2秒ぐらい

*2:映画版ではばっさり削除されました