ダ・ヴィンチ・コード(下)

ダ・ヴィンチ・コード(下) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(下) (角川文庫)

 扉の「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」というコメントを見て下さい。
 この本で扱った"ネタ"は単なる空想ではない、とほのめかしています。
 まあ、こういう話はホントかウソか分からない感じが面白いのであって。
 こんなん逝きすぎた空想に決まってらーと思いつつも、膨大な傍証と、読者に考える間を与えない早くて歩幅の大きい理論展開に煙に巻かれて「ひょっとして…?」と一瞬思ったりするのが面白いのですから、"ネタ"がフィクションかどうかの追求は野暮だと思います。
 作者がわざわざ「"ネタ"は完全にフィクションだから!」と種明かしするメリットもあんまりないかも知れません。売り上げを考えるなら、この辺は意図的にぼかすべきかも。
 むしろ「(古典的な)アイドルがトイレに行くなんて言っちゃダメ!」的に、読者として聞きたくない、という気持ちも、あります。
 文庫のオビや広告のコピーを見た印象では、角川書店も「"ネタ"がフィクションかどうか」の点については言明を避けています?
 どの段階で「フィクションかどうかはぼかそう」と言い出したのかは、ちょっと興味があります。角川書店が、日本での売り込み戦略としてこうしたとも考えられますし、もっと前の段階、著者あるいはマネージャーの意図かも知れません。
 なんとなくの印象では、作者自身の仕掛けではないかと。
 職業ベストセラー作家みたいな書き方で*1、小説しか書けない不器用な全身小説家とは思えなかったので。なんか、小説と売り方をセットでプロデュースしてそう?みたいな?
(この説にわたしは500円を賭けてもよい)


 個人的な願望では、作者が本気で"ネタ"を信じている。だったらいいなーと思います。

 などと野暮なことを言っていますが、もしも"ネタ"が本当に真実であったとしたら、
 わたしはなんと言ってお詫びしたらいいのだろうか。


 歴史をひっくり返す"隠された真実"が仮説でなくなる所まで描写しちゃうと、今までギリギリ保たれていた本当っぽさが失われて、完全に彼岸に行ってしまうから。
 と、一晩経った後から思ったのでした。
 そして、上記のような事を考えたりしました。
 他のやるべきことを放り出して読みふけり、もどかしい思いでラストシーンまで到達して「うわっ蛇の生殺しですかっ」と思ったことは、もう心にしまっておこうと思います。
 "世紀の謎"の輝きはそのままに、死者の名誉は回復され、バラバラになった家族は再会し、物語は正円を描いて閉じる。美しいではないですか。


 文句を言うとしたら、短くて、構成がスキがないってことかなあ。
 ウンチク量が思ったより少なくて、ちょっとしょんぼりなのです。
 物語の構成が歪になるぐらい熱〜くウンチクを語られちゃうのを期待していたので…。

*1:ミスディレクションも2〜3個入れるのがノルマだから入れました。みたいな?