『夏草の賦』下
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/09/02
- メディア: 文庫
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とくに、秀吉晩年の格好良くない時期をすっぱり省いていたので、よけいに文句が言いたくなりましたっけ。
別に英雄譚とかそれほど期待してないから(そこまでは言ってないか)、晩年格好悪くても司馬節で語り切って欲しい、とか文句言いました。
いま、正反対のことを言ってしまいそうで怖いです。
司馬さんごめんなさい。
読書感想文ぽくまとめると「天下争いに遅れて来た男」元親の若き日の輝きと、失意の後半生の落差がキモなのかも知れません。キャラ萌え小説ではなくて(笑)
なにを持って鬱エンドと定義するかは人によって意見があるところだと思いますし、鬱エンドは良くないか?となると別の話になると思います。
しかし上巻の陽気なノリ(プラス現代の腐った基準で見ても突出しているキャラ萌え要素)がこのまま続くと思いこんで読み進めると、下巻で手ひどく裏切られることになると思います。
わたしは裏切られたと感じましたっ
腑に落ちなくて、ちらちら長曾我部元親の年譜とか見てみたのですが、この人の生涯自体が「爽快な英雄小説」のパターンにはあてはまりにくい雰囲気なのでしょうか?
たとえるならば、県大会で華々しく優勝して張り切って甲子園に行ったらもう全国大会は終わってました、みたいな? 後半生は「鶏口牛後」の四文字熟語を日々痛感しながら生き、最晩年はうつ病だったのかも知れない。
後半は、別の感慨がありました。
首都圏だったら毎週のように面白そうなセミナーが開かれていて今をときめく論客を生で見る機会がごろごろしてんのになぁ、自分と大差ないようなぺーぺーが近くに住んでるってだけて私淑しててずるい、ド田舎は損だぜ、という思いとか。
思春期の頃「自分は一流になれる」と根拠なく確信していたことと、ある日「自分は一流になんかなれないんだ」と知った日のことを思い出したりとか。
元親後半生の失意と無気力は、我が身に照らして非常にリアルというか、ありうる近未来と言うか、なんかスゲー分かるという共感と、同時に逆の感情、「このまま流されて良いのか」「最後にもう一勝負すべきじゃあないのか」などと勇気とも焦りともつかぬ激しい何かがほとばしりそうになります。読み終わった後、なにかしたくなる、人を動かす力のある小説だと思います。(わたしは思っただけで何もしてませんけれども)
だけど、前半の雰囲気とちぐはぐな印象が。
失意の元親を「変わり者の姫」はどう見るのかどう支えるのかと思ったら、姫はキャラを生かせずフェードアウトしてたりとか…
前半の飛躍する英雄ストーリー(+奥さんが素敵な変わり者)と後半の失意、どちらかにしぼった方が、ひっかかりなく全編読み通せたような気がします。新装版では上巻・下巻できっちり分けられていて?別の小説を読んでいるみたいでござった。
でも、きっかり半分ずつあてて、飛躍と失意を両方描いたところに意義があって、わたし自身がもっと年を取ってから読むと別の感慨があるのかも知れません。
次は元親の子供の話の『戦雲の夢』を読もうと思って買ってきました。年譜によると司馬さん37歳の時の作品のようです。
『夏草の賦』は43歳〜44歳の作品のようです?
だから何だってわけではないですけれども。
あと、最近の?文庫には作品の初出が書いてなくて不便だと思います。
何歳の時に書いたかとか、前後・同時期になにを書いたのかって気になるじゃあありませんか。