『山椒魚戦争』
- 作者: カレルチャペック,Karel Capek,栗栖継
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2003/06/13
- メディア: 文庫
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ちっとも現代に戻れません(挨拶)
19世紀末(たぶん)に南洋で発見された温厚で賢い海棲の山椒魚は、安価で従順な労働力として20世紀初頭から全世界に広まった。しかし、十数年のうちに数と武力の点で人類を上回るようになり…
作者のカレル・チャペック氏はいにしえのSF作家であり、「ロボット」という語を作った人として高名な人なのだそうです。だから、ヴェルヌ(1828-1905)、ウェルズ(1866-1946)ぐらい古い人かと思いこんでいましたが、そこまで昔の人ではなく、しかし第二次世界大戦に無名の一青年として関わり、作家として冷戦の時代を生きた、クラーク(1917- )、ハインライン(1907-1988)*1よりは昔でした。ジャーナリストとして作家として、第二次世界大戦前夜を生きた人だったようです。
ロボットという語の初出であるところの戯曲『ロボット』と並んで彼の(SFの)代表作とされる『山椒魚戦争』を読んでみました。
古典だし、そのうえ岩波文庫だから*2、さぞ読むのが退屈で苦痛であろうと思ったところ(偏見)、するすると楽しく読めてしまいました。
途中が新聞記事の切り抜きから抜粋してますという体裁(切り抜きコレクションがあまり系統的でない理由がおかしい)だったり、最後の章で作者が脳内会議を始めて雑談形式?で大きな話が進んだりと、おおらかすぎる構成すら、楽しく思えました。
最初の章のヴァン・トフ船長と知性ある山椒魚たちの出会いと交流が、のんびりした筆致で描写され心温まるものでした。これで、作品への先入観が出来ちゃったような気がする。
このヴァン・トフ船長と言う人は、怒って部下を動かすタイプで、酔って部下に当たり散らすタイプで、民族差別意識丸出しのタイプのようです。部下はいても友人や仲間はいないタイプだと思います。
そんな憎たらしいコワモテのおっさんが山椒魚たちを説明するに、「子供のような手」と何度も言うのです。山椒魚のために奔走するヴァン・トフ船長は、人生で初めて父性愛を発揮してるんじゃないだろうか。そして打算もなにもなく、好意を素直に受け取る山椒魚たち。船長は、内面では寂しさを感じていた人なんだろうか、などと空想が広がります。泣ける。この辺で登場人物がポケモンの絵で固定されてしまいました(マテ
知性を持った一種族(山椒魚)が栄えて滅びるまでを描写しているので、かなり凄惨な描写もあるのですが、最初のイメージ固定と、作者だけでなく訳者の人の功績もあるでしょうが、のんびりした筆致に最後まで騙されてしまったような気がしないでもない。
「ハロー、ハロー、ハロー! チーフ・サラマンダー・スピーキング。
ハロー、チーフ・サラマンダー・スピーキング…」
とか山椒魚の?カタコトの英語?がかわいらし過ぎる。
ほとんど宣戦布告なのに。
また、『山椒魚のためのチェコ語』を愛読書とする山椒魚の謙虚さと礼儀正しさと愛らしさと言ったら!
しかし彼が真に関心を抱いていたのは、チェコの隷属の歴史に、でありました。たぶん、彼ら山椒魚の隷属的な立場を重ね合わせていたのだと思います。
ヴァン・トフ船長以外のほぼ全ての人間たちは、山椒魚たちをむごく扱っています。モノ扱い、過酷な労働、ひどい生活環境、生体実験、大量殺戮。にも関わらず、山椒魚どもはぼーっと無表情で、鈍感かつ無感動に耐えています。
なんだか近頃はゴネたもん勝ちみたいな世の中ですが、だからって何も言わないから無視して良いってことにはなりますまい。なまなましい山椒魚の怒りが、作品中で直接的に描写されないからと言って、ぼんやりうっかりテイスト小説とか思っちゃう自分もどうかと反省されます。
ああ、しかし、最終章の脳内会議の他人事っぽいやりとりでまた腰が砕け…
でも、文明の行く末というものについて口調こそ軽いけれどもものすごく悲観的な考えが述べられている気がする。
自分の中でクトゥルーカテゴリにしたのは、単純に似ていたからです。
発想が。
(…)私は、何かの機会に、次のような語句を書いたのです。「われわれの生命を出現させた進化が、この惑星上における唯一の進化の可能性だ、と考えるべきではない」と。---これが、そもそもの始まりなのです。この語句のおかげで、けっきょく私は、『山椒魚戦争』を書くことになったのでした。
「作者の言葉」より
人類の想像の外で、勝手に増えて力をつけていた知性を持つ海棲種族。いいね!
海底にいるから、彼らの共同体の全貌が見えなくて気味が悪くていいね!(いいのか?)
しかし、ラヴクラフトが架空の物語の迫力を増すために現実の事物を取り入れたのに対し、チャペックは、架空の山椒魚を通じて、現実の何かについて意見を言いたかったのでしょう。
調べて気がついたのですが、ラヴクラフト(1890-1937)とチャペック(1890-1938)は、ばっちり同時代人です。
ここにもう一人、同時代人を挙げます。アドルフ・ヒトラー(1889-1945)
アメリカ人で、そのうえ半分ニートだったラヴクラフトにとって当時の欧州情勢がどこか対岸の火事だった(作品とか読んでもあんまり出てこないからそう思っちゃう)のと異なり、チェコの人のチャペックにとってはヒトラーは無視できない存在だったに違いありません。
ヒトラー(とゲシュタポ)にとってもチャペックは無視できない存在であったらしく、チャペック自身は、1939年のナチスドイツによるチェコ占領の前年に肺炎で亡くなっていますが(享年48歳)、兄弟や多くの友人がナチスドイツ占領下で非業の死を遂げていて、『山椒魚戦争』も占領下で禁書とされていたそうです。*3
似たような発想から出発し、いくらか似たモチーフが散見されたとしても、作品の目指す方向は全く違い、社会の反応も全く違う訳で。かたやマイナー誌周辺で内輪ウケネタで盛り上がり、かたや強烈な諷刺作品としてナチスドイツと共産党に目の敵にされ。
ですが、山椒魚たちがモロク(モレク)神を頭が山椒魚で体が人間の神だと想像して、像を作って信仰していたようだとか書いてあるのを読むと、ラヴクラフトとチャペックという同時代の空想力が余りまくっている作家ふたりが同じ電波を受信したのかも!?などと不穏な空想をかきたてられます。いいね!
翻訳者氏による解説も、興味深いものでした。
岩波文庫版は1978年に出版されたものです。はっきりと「鉄のカーテン」に苦労していたのが読みとれるのも、時代を感じて趣深いですが。
それよりも。
翻訳者氏が武器としたのが、エスペラント語、なのです。
鉄のカーテンを越える、エスペラント語を学ぶ仲間同士の文通ネットワークがあった(としか思えない)。現代では、ちょっと何語で交流したらいいのか迷うような東欧の人ともエスペラント語で文通して、貴重な資料をコピーして送ってもらったり、こまごまとした表現や引用について教えて貰ったり。今だったら英語とインターネットを介して行われるところだと思いますが。
ああしかし、人工言語って言葉の響きがいいですよね。人工頭脳とか人造人間とか、あれらに似たときめきを感じます。人工言語エスペラントって書くと、ちょっとアニメっぽいかも(嘘)
そもそも世界共通語になるような言語を人工的に作ろうという発想自体が、いまとなってはレトロフューチャー感あふれていて趣深く感じられます。きっとエスペラントの発想の根っこには、世界共通語を基盤とした全人類の相互理解→戦争の廃絶、という大きな夢があったと思うんです。違うかな。どうだろう。
なんて過去形で語り、一度も実現しなかった理想の夢だからこそ美しく思える、なんて思っているわたしは、ほんとうに平和で幸せな時代に生きていると言えるのでしょうか。