『新史 太閤記(下)』--短編連作のたのしみ

新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)

新史太閤記 (下巻) (新潮文庫)

 かつて、わたしは短編連作にはまっておりました。
 短編たちを追っていくうちに、作者の設定した世界が分かっていくのが面白かった。
 パズルのピースを拾い集めてくみ上げていくような。
 望遠鏡であちこち見回して、頭の中に地図を作り上げるような。
 これは歴史の教科書のように冒頭で総論ぽく語られては味わい深くない。
 こんな設定を考えたの!聞いて聞いて!!とガッと語られては奥ゆかしくない。
 あくまでもメインとなる物語を丹念につづりながら、そこここの描写で、ああ、作者はちゃんと舞台背景を考えているんだな、とニヤリとさせられるのが楽しい。
 じわじわと気づいて行くのが楽しい。
 バラバラの断片が一つにつながる瞬間、「そうだったのか!」と雷に打たれたような閃きと、喜びの瞬間も楽しい。


 この楽しみと「短編連作」という言葉を教えてくれたのは神林長平の『戦闘妖精・雪風』であり、閃きの瞬間の歓喜があまりにも強かったので、長く耽溺したのが谷甲州の『航空宇宙軍史シリーズ』です。
 後者は、緻密な所と、描写されていない部分の比率が絶品で、思わずつたないファンフィクションを書いちまうほどハマりましたっけ。
 思えば、クトゥルー神話もそういう部分があったと思います。思わぬところが思わぬところにつながってて、それを見つけるのが楽しかった。


 という短編連作の「つながる」楽しみを教えてくれたのが、SF系作品だったので、それはSFに特有のものだと思いこんでいましたが。


 「つながる」楽しみって歴史モノを読む楽しみでもあるんじゃないか、と今ごろ気がつきました。


 結局『新史 太閤記』を最後まで読んでしまいました。
 物語は後半、湿った翳りを帯びたものになり、信長健在時のからりとした陽気な楽しさは少なくなりますが、同じ司馬遼太郎の『関ヶ原』『城塞』で活躍する人々の若き日の姿や親世代、見知った地名が登場するもので、「あー、これがあれにつながるのか!」とわが「つながる」たのしみ感知センサーが振り切れっぱなしです。短編でも連作でもありませんが。いや連作ではあるのか。
 今まで無知だったがためにいっそう喜びが深いと思われます。
 よくぞ今まで無知のままでいた自分!
 食わず嫌いで放置していた自分を誉めたい!


 ところでわたしは、幕末がまっったく分かりません。
 火星の歴史の方が詳しいぐらいです。
 戦国を味わい尽くしたら、次は幕末に手を出せば、この喜びがエンドレス?


 それで『新史 太閤記』ですけれども。
 秀次の話と朝鮮出兵の話がすぽーんと抜けていてちょっぴり落胆しました。
 歴史小説をいくつも読んだ訳ではありませんが、全体に主人公が若くて無名の時代の方が面白いものが多いと思います。小説家が、奔放に空想の翼を広げられるからでしょうか。
 逆に、主人公が功成り名をなして、知名度100%のエピソードが目白押しになってくると、奔放なものがたりの楽しさは翳ってくるように思えます。なんとなく。
 とくに、どう考えても失敗だったり、悪逆非道で弁護しようがなかったり、格好悪いエピソードだったりすると、特に?
 『新史 太閤記』も、そんなふうに思いました。
 どうしようもないエピソードでも、司馬さんが調べて感じたことを司馬節で語って欲しかったように思います?
 わたしは秀吉が好きですが、司馬さんはもっと好きなのです。