『タイタンの妖女』

 1959年の作品。
 わたしは、このような作品を語る言葉を持たない。
 文章は好きだ。
 おおむね3行に1回の割合で、わたしはクスリと笑う。
 おおむね2頁に1回の割合で、この文章をもじって何かに使えやしないかと考え込んでいる。
 しかし、冒頭の珍妙な設定と愉快な文章から、軽く珍妙なストーリィを期待すると、おおいに間違うことになる。間違った。騙された。
 マラカイのこそげ取られた記憶について、他人に振り回され浪費した半生について、わたしは沈黙するほかない。
 (彼の手にした手紙の末尾の文字に、わたしは怖くなって泣いた)
 多くの人間をひどい死とひどい運命に追いやったラムファードに対して、わたしは腹を立てた。彼が報いを受けずして、物語は終わらないと思った。期待した。
 しかし、最後の最後で彼に対する怒りは霧散霧消してしまった。
 最後の舞台タイタンの透明感あふれる天地を背景に、別れを告げるラムファードの言葉に、胸を締め付けられた。
 この物語に登場する人々の、苛烈な運命に対する、静かな諦念が悲しい。
 悲しいのに、喜劇になってしまうのが、いっそう、悲しい。
 そのうえ、これは怖い話だ。この上なく怖い話だ。


 思うに、白黒はっきりさせてはいけないことが、この世には多々あるのではないか。
 ひとたび疑いを持ち、理屈とか、論理とか、科学的証明とか、そのような方法で白黒つけようとすると、底なしの迷宮に迷い込むことになる問いが、あるのではないか。
 ただ確信するか(そうとう心が健康であるか、かなり愚かでないとできないと思うが)、あるいは考えないようにするしかないものが。
 たとえば、人生の意味のあるなしとか。自身の正気とか。
 もっとも、わたしは少し楽観的な考えを持っていて、これらが「追求禁止」なのは、理屈とか、論理とか、科学的証明で答えを出そうとする場合のみであると思っている。
 適切な質問の立て方と、適切な解法を選ばないと、とんでもない答えが出てきてしまうのはよくある話であって。
 しかし。
 わざと適切でない質問の建て方をして、わざと適切でない手段で解を求めようとして、とんでもない答えを出して、楽しむことは、ある。
 しかし、それは気持ちに余裕のある時に「ひょっとして…だったら怖いね」と空想して遊ぶものだと思う。
 もう少し、気持ちに余裕のある時に読みたかった。


 ああ、だがしかし。
 この恐ろしい物語に一矢報いよう。
 異形の宇宙人・サロはとんでもない萌えキャラだと思うんですけど!