秘儀
わたしは恐ろしいことをしてしまった。
肉体も精神も自由でいられるのはあとわずかだろう。
しかし、不思議と悔いはない。
残されたわずかな時間を、取り乱さずに過ごすことができそうだ。この間に、わたしの身に起きたことを書き記しておこうと思う。
邪法。
そう、邪法と言っていいだろう。
社会常識から人間の魂のありかたに至るまで(そもそも、正当な対価を抜きにして人はなにかを手に入れるべきではない、それは確実に魂を堕落させる)、いくつもの段階でいくつもの禁忌に触れる邪法である。
ああ、それに。
声を潜めて語られるその名を見よ。
千の化身を持つ無貌の忌まわしい神の名が隠されているように思えてならないのだ。
しかし。
すでに亡きものを、幻影でもいいからひとめ目にしたいと願った時、長年のあらゆる方面にわたる努力の末に、その願いをかなえるのがその邪法のみだと知ったとしたら、人は、その誘惑に抗えるだろうか?
いや、言い訳はよそう。
わたしは、魂を売ったのだ。
ここに一個の奴隷がある。
知人から譲り受けたものである。
これが、かつて主から愛されていたことを、わたしは知っている。
彼は新しいパートナーを手に入れ、職を失ったこれはわたしに譲られた。
譲り受けた当初、個人的な情報こそ消去されていたが、センスの良い壁紙と、机上に合理的かつ端正に振り分けられた近道の印は、彼が愛用していた時のままで、かつての所有者の趣味の良さと愛着の深さを示していた。
「あなたは大事に使ってくれそうだから」
その時の彼の笑顔が脳裏に蘇る。
しかし、わたしは彼の好意を裏切った。
このものの記憶領域を全て白紙に戻し、細心の注意を払って必要最小限の、没個性的な記憶を入れた。
わたしはこのものを、電子の海を彷徨する魂を受けるかりそめの器とするのだ。
どんな忌まわしい悪霊がここに降り立つか分からないので、厳重に隔離しなければならない。
この、かつて一人の人間に愛されたものは、個性を失い虚ろな器となったのみでなく、わが屋敷でもっとも卑しく忌まわしいものとなったのだ。
この事実を知ったら、前の主は、わたしを絶対に許さないだろう。
虚ろな器に受けたいと願うものは、かつて存在し、いまは亡きものの幻影である。うごめく光と音の記録である。
還らざる過ぎ去りし夜。
不幸にしてそこに立ち会えなかった者は、断片的な映像、居合わせた者の証言、音声記録の一部を手がかりとして想像をめぐらすしかなかった(そもそも記録の大部分を隠匿することを決めたのは、当事者自身である。いかなるおぞましい理由があったのだろうか?)
かつて一回、この邪法を試みた時は、わたしの貧弱な知識と設備では、手も足も出なかった。
今回は違う。
器を手に入れ、いまやわたしは、求めるものの真の名を知っている。
混沌の海から細い通路を引き、器に真の名を唱えさせた。人間には唱えることのできない、数字と文字の羅列である。
落胆の夜と失望の朝とを幾度も繰り返した後に、ついにわたしは器のなかにわだかまるひとつらなりの塩を見つけた。
わたしは慎重に器を隔離し、検疫した。
悪疫の影はないようだった。
塩からもとの配列を取り出すべく奮闘したが、知る者の少ない言語で記されているようで、手持ちの道具では幻影のざわめく声しか再生することが出来なかった。
わたしは素性の怪しい方面から新しい道具を仕入れるしかなかった。
この道具についてはさまざまな芳しくない噂を耳にしていたため、道具を仕入れた後に再び検疫したのは言うまでもない。
しかし、その時の科学水準では調べようもない、未知の病原体というものはある。C型肝炎ウィルスしかり、プリオンしかり。それらは、ほんの少し前までは存在すら知られていなかったのだ。
それを思えば、想像もつかぬ悪疫の種がここにまぎれていないと、誰に言い切れるだろうか?
だが、ここまできて引き返すことはできない。
震える手で所定の手続きを踏み、おお、人の目には灰色の塩としか見えぬものから立ち上がったそれは…まさしく、わたしが求めていたものであった。
伝え聞く伝説の断片の、その総和に、わたしの手の届く限りで、もっとも近いもの。
伝説の起源、その夜の影をわたしは目の当たりにしている。
わたしの乾ききった両目からとめどなく涙は流れ、これらがあの日を最後に永遠に失われたという事実を、わたしははじめて心から受け入れたのだった。
ああ、玄関に誰か来たようだ。扉を叩いている。
禁忌を犯した報いを受けるのだ。当然の報いだ。
だが、もはや思い残すことはな